くらいところから

文学部出身者が、見聞きしたものについて考えたことを書くところ。いつか明るみに出られると信じて。

限りなく狂人に近いなんとか【平山夢明:すまじき熱帯】

 

一般論として、実体験に即しているほど、文章を書く筆はスムーズに進むと思う。

 

だからこそ僕は、現実離れした描写が、あたかも筆者が体験してきたかのように生々しく描写されている作品に強く惹かれる。

特に、筆者本人が最も狂っているのでは?と思うほど一貫して歪な世界観の中でストーリーが展開する作品は、路上で凶行を起こしている変人の頭の中を覗き見ることができたように感じられる貴重なものとして、崇拝されてやまないのである。

 

今回の表題の作品は、主人公、「俺」が東南アジアのジャングルの中で死体の山を燃やしている場面から始まる。薬物の生産、売買によって、私設軍を作れるほどの巨万の富を築き上げた人物を殺し、その懸賞金によって一攫千金を狙おうとした「俺」たちは、組織の殲滅には成功したものの、日本に帰る術を無くしてしまって途方に暮れていたのだった。

 

本筋のストーリーや結末の詳細は書かないが、物語の舞台となる集落の描写がとにかく狂気的で生々しく、またおどろおどろしい。

獰猛な獣や虫たちが跋扈するジャングルを遡上しながらでないと、件の集落には近づくこともできない。引き返そうにも、川を生身で渡れば肉食魚の格好の餌になってしまうし、赤道近くと思われる集落付近の地帯に降り注ぐ日差しは非常に過酷だ。さらに、そこの住人達もこれまた御しがたく、彼らは例え知人や友人であっても組織のルールを守るためであれば殺すことを厭わない、独自の倫理に基づいて暮らしている(自分は何となく人民寺院の事件を想起してしまった)。

 

取材等はあっただろうこそすれ、まさかこれは筆者の実体験をもとにしているとは思えない(そうだったらすみません)が、おそらく筆者は一からこの作品の舞台設定を構築しているのだから、ただただ敬服するばかりである(作中の現地語が「俺」にはどう聞こえるかという描写にも注目してほしい。どうやって考え出した文言なのか非常に気になる)。

 

短篇であることもあり、この作品は何度か繰り返し読んでいるのだが、読めば読むほどこの作品は、常人が書いた物語というよりは、命からがら東南アジアのジャングルから生還した、正気を半ば失ってしまった人物が記したルポルタージュに思え、また筆者が宿している狂気の存在を疑わずにはいられなくなるのだった。

自身の片割れのような存在を易々と切り捨てられるか?というお話【倉狩聡:かにみそ】

自分の中に大きな要素として入り込んでしまったものを取り除くのは、相当な苦痛を伴う。

それは、腫瘍が宿主の体から切除されるときに痛みや出血を伴う様子に似ているようにも思う。

そんな存在ができるきっかけは、同じ苦痛を一緒に分け合ったり、長い時間を一緒に過ごしたり、一人きりでは抱えきれない巨大な秘密を共有したりすることから始まったりするんだろう。

 

倉狩聡さんの短篇「かにみそ」は、主人公と、彼が偶然出会った蟹とが奇妙な共生関係を築く物語だった。

主人公は蟹に愛着をもって、熱心に住処や「エサ」を提供する。蟹は嬉々としてその「エサ」を享受し、また主人公になついていく。

蟹がどんどんと成長して「エサ」の調達が難しくなったころ、蟹の方から主人公に別離が提案される。主人公はそれを受け入れ、涙とともに蟹を食らうのだった。

 

「ヒト」と「蟹」とが友情とも愛情とも定義しがたい関係で繋がり、別れる話だから、そしてその過程が若干おどろおどろしいから、この作品は奇妙でホラーチックなものに思えるが、これが「ヒト」どうしの関係を描いたものだったなら、文学にカテゴライズされてもおかしくないほど純な作品だったと思う(そうして欲しいというわけでは決してないが)。

僕たちが片割れ、相方どうしになるくらい親睦を深めた他者と別れるとき、内心でその存在を葬り、忘れようとする様子は、泣きながら仲良しだった蟹を平らげる主人公と、もしかしたら同じ心境なのかもしれない。